eiei322006-06-04

を初台の新国立劇場へ観に行く。劇場内で軽く食事するつもりが営業している茶店はなかった。仕方なく近くで茶して、始まるまでの時間を潰す。出演は、吉田栄作小島聖月影瞳他。作・演出は永井愛。「われわれは、どこへ行くのか」第3弾。とある。


この作品、NGOを運営する若者の青春群像劇である。幕は、2003年2月16日、2004年4月12日、2005年9月10日、2006年3月20日とある。出演者の服装からおよその季節を推測することが出来、せりふから、イラク戦争とその後に詳しいものなら、その日付を推測することができよう(私にはできなかったが)。イラク戦争に反対するNGOピースウィンカーの集会兼作業所が、4幕まで一貫しての舞台となる。
タイトル「やわらかい服を着て」からあてがわれる雰囲気のとおり、NGOの運営を舞台としながらも、その若者らの姿を主題に描かれている。反戦争とイラクへの医療支援という話は重いが、劇は、より人間的な重さを訴えている。なにかに前向きに取り組む人の苦労と挫折、組織と個人との葛藤を照らしている。
ずしりとくるものを感じながらも、観ている者たちに反戦を主題に訴える内容ではないと感じた。否、実は反戦なのだが、多くの人にうけいれられるように工夫して書かれたといったほうがよいのだろう。
「平和」ということに主体的にかかわろうとする主人公たちの姿には、観ていて考えるものがあった。かつての自分との照らし合わせも含め、仕事をしながら、アルバイトをしながら、運営費を稼ぎNGOの活動にあたる。そして、仕事をやめ、生活苦を抱えながらも、出発点である活動を続けようとする姿勢。それは、若いときだから、もあるだろうが、自分たちの生きている時代を実直に見つめ見極め行動する、そういう姿勢のものすごく重要なことを思い起こした劇であった。


その昔主催した講演会でのテーマを、講師は、反戦・平和というテーマではなく、なぜ時代が見えないのか?をテーマとした。見えている人には見えている。しかし、それに気づかず、迷い、今を見据えることができない。それには、世の中の仕組みがあり、おのずとそういう所へ立つようになっているとの主旨から出されたテーマであった。
会社や社会にいると、足元が見えているようで実は見えていない。見えている足元の下に別の土台があることには気づかないということがあり、今はその土台が幾重にもなっている時勢なのだろう。これは社会に限らず、今の会社にも言えることだ。だから、所詮は自分で考え、自分で物事を捉え、世の中と比較比重して複眼で観ていかないとやはりいけないとおもう。自分の考えだけでは足りず、人の考えだけでも足りないということ。


さて、当初、このような劇とはまったく想像していなかった。何気に見にいった劇である。吉田栄作が舞台初出演であるとか、くらいのものであった。だから、劇が進むにつれ、平和と戦争。それに対峙せず傍観する社会という内容は、ちょいと重いかな、なんておもいつつ最後まで観ることとなった。反戦のみがこの劇のテーマなら最後までは観れなかったかもしれない。それは、今の自分の中の意識がどこまでが受け止められるかとも絡んでのことだ。
劇は13時から始まり、途中15分の休憩を挟み15時30分過ぎまで上演された。
なお、会場には、イラクの子どもたちの写真と子どもたちが描いた絵が展示紹介されていた。そしてその子のうちの何人かは既に亡くなっていることも。


最近、ひとつの転機がきているようなそんな気がする。どのような転機であるか、わかるものではないが、今はそういうひとつの節目の時なのかと感じたりする。