ゴドーを待ちながら

こう説明されたら、この劇は見なかった。この手のものはあまり好きではない。
演劇には、エンターテイメントの要素を求めてしまう。
日常から開放され物語を楽しむ世界、それを演劇に求める。

そういう嗜好からすると、今回見た、「ゴドーを待ちながら」は選択を誤ったとも思った。

単に、前日ネットで、久しぶりに演劇が見たい渇望し、すぐに手に入るチケットを探していたら見つけたものだ。
橋爪功石倉三郎。この二人の出演で、どんな劇かも考えずチケットを手に入れた。新国立劇場だからはずれなし、というのもあった。

さて。

ゴドーを待ちながら
en attendant godot

新国立劇場
作:サミュエル・ベケット
翻訳:岩切正一郎
フランス語版を基本にした新訳
演出:森新太郎
橋爪功石倉三郎

1953年パリで初演されたもの、「前衛の不条理劇」と言われ、暴力的せりふでもあり、喜劇的でもある。という芝居ということを、開演前にパンフレットを読んでみて。会場で知った。

この劇には「ゴドー」は、最後まででてこない。
ウラジミール:橋爪、エストラゴン:石倉、とほか3人のキャストである。

そして、一部構成か二部構成かもわかぬまま、幕があける。
正しく言うと幕はない。通路のようなステージ。客席はそれを両側ではさむ。
会場が暗転し、劇ははじまった。

正面がないステージ。橋爪が石倉が、こちらに顔を向けたり、背中を向けたり。こういうステージでは、生声を客に伝えるのが難しい。背中越しに聴く台詞は、正面に向けて発した生声より聞き取りづらい。

二人の掛け合いが面白い劇かと思えばそうではない。台詞は暴力的であったり、感情的であり、感情のぶつかりそのものである。喜劇的な部分は多くはない。

こういう、見るものに闘いを挑んでくるかのような劇は、見る側の気持ちをしっかりしないとなえてしまう。不条理劇なのだから、見るものが突然不条理な世界を突きつけられる。

前夜のゆったりと演劇を楽しみたいという期待は、打ち砕かれた。


さて。

この劇は二部構成。19時から始まり、終わったのは21時40分ごろだから、長い。
けれど、二部に入って、なんとなく劇が見えてきて楽しめた。
楽しめたというのは、笑えた、というのではない。劇が楽しめたということ。



パンフレットにあった、岡室美奈子さんの「瓦礫からの祈り」という文章の一説が、芝居と絡んで印象強くなった。

「人間の死とは無縁な理不尽な死を目のあたりにし、原因と結果が結びつかぬ強烈な不条理の感覚に打ちのめされたはずだ。」

「日常が死と隣り合わせであることを実感しつつそれでも日々の生活を続けていかなければならなくなったとき、「ゴドー」はかつてないほどのリアリティーを獲得したのだ。」

久しぶりに、芝居を見た。