新国立劇場 小劇場

eiei322009-05-23


23日、新国立劇場にて、「タトゥー」を観る。

ドイツの現代演劇を翻訳しての作品。


演出は、岡田利規。原作はデーア・ローアー。

この演劇、一言で言うと、1時間30分の上演時間が苦痛であった。


舞台は、天井から紐でたくさんの窓枠がつるされている。
窓枠に混じって机や椅子、ベッドなどもあり、シーンによって、それらが降りてきて状況をつくる。

物語。
二人姉妹のいる家族。一見普通の家族。
世間体のよいパン焼き職人。
だが、その父親は姉に性的虐待を加えている。姉は、そのことで家族内の均衡が保たれているとそれを受け入れている。一人の男性との出会いから姉はその父からの忌まわしい刻印(タトゥー)から抜け出そうとする。
グロテスクな人間関係。それを、ドイツ語ゆがめて書き浮き上がらせている。
そのドイツ語を翻訳しての上演。

新聞評では、
『革新的な身体表現で演劇を見つめなおしてきた岡田の感性と、ローアーの言葉がどう響きあうか。』
『「間隔に直接訴えかけてくるもの。それが官能。」「演劇の本質としての官能性をごろっとむきだしのまま届ける上演にして、観客を安全じゃない状態の中に陥れたい。」と岡田はいう。』

観終わったあと、上演中はたしかに苦しかった。
この題材で、家族のタトゥーの痛みを直接観客に伝えているかのようだ。

演劇には、耳の痛い音もなく、まぶしい光もない。
それでも観ている者が苦痛を感じるのは、淡々と流れるストーリーと、それを際立たせる、ゆがんだ言葉。
言葉は早すぎることもなく普通に発せられるのだが、その意味は、不明な言葉がまじり、発している意味を汲むのがつらい。

観るものが劇中に攻め入って、演出家がなそうとすることの意味をつかもうと働きかけないと、単に退屈でつまらない、そう一蹴してしまう作品である。



久しぶりの観劇だったので、もっとお気楽なのを選べばとは思った。
けど、たいはんがつまらない失敗作と受け取るような作品に出会えたのは、よかったのかと思う。

ただ、出演者は、どれほどこの演出家の意図をくみとれたのか。
強烈な痛みに照らされたのは、出演者なのではないかと。